Музей-квартира Андрея Белого на Арбате
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ベールイ生誕125年記念国際会議に参加して

太田丈太郎


Отзыв Ота Дзётаро (Япония) об участии в международной конференции к 125-летию со дня рождения Андрея Белого "Андрей Белый в изменяющемся мире", прошедшей с 26 октября по 1 ноября 2005 года.


 今年2005年10月26日から11月1日まで,アンドレイ・ベールイ生誕125年を記念する国際学術会議がモスクワで行われた。「変貌しつづける世界におけるアンドレイ・ベールイ Андрей Белый в изменяющемся мире」という標題のもとに,この会議はプレチースチェンカのプーシキン博物館とアルバートのベールイ記念博物館を会場とし,А.В.Лавров,G.Nivat,J.D.Elsworth,M.Ljunggrenなど,ベールイ研究の大家のみならず,世界各国から研究者が参加した。日本からは千葉大学の鴻野氏と筆者である太田の二名が参加した。鴻野氏は『モスクワ』における「眼」のモティーフを分析し,筆者はロシア国民図書館(РНБ)に所蔵されるベールイの未公刊水彩画をもとに,彼の想像力における「構成の原理」を論じた。

 研究発表のみならず,会議ではさまざまな催しが行われた。会議初日の26日,ベールイ記念博物館で,スイス・ドルナッハの「ルドルフ・シュタイナーの遺産」アーカイヴに保管されているベールイの未公刊イラスト類の展覧会が開催された。二日目27日には,ベールイが1925年から31年まで暮らしたモスクワ郊外のクーチノを訪問し,作家が暮らしていた家を見学,また彼が日常散歩していた森を散策した。研究発表もひととおり終了した31日には,ノヴォデーヴィチ修道院の墓碑を 訪ね,花を手向けた。最終日の1日は,プロスペクト・ミーラの国立文学博物館(ГЛМ)の分館「ブリューソフの家」を訪問し,ブリューソフの書斎・蔵書のほか,「銀の時代」ゆかりのさまざまな収蔵品を見学した。

 実際の研究発表から,とくに興味深かったものにいくつか言及しておきたい。А.В.Лавров氏はベールイの散逸した長篇詩『太陽のこどもДитя-Солнце』における作者の意図を復原しながら,そこにみられるドイツ・ロマン派,とりわけジャン・パウルとの影響関係を論じた。L.Silard氏は,ベールイにおける「上昇восхождение」のモティーフを論じ,上昇の路において個別的な我と,集合的な「我」がいかに関わるのかを述べた。 O.Matich氏は,映像を利用しつつ,いわゆるイコノロジー的な観点から『ペテルブルク』のテクストに潜在するカンニバリズム,子を喰らう父親のイメージを導き出した。М.Л.Спивак氏は日射病(солнечный удар / солнечная стрела)で死亡したという 「預言者」ベールイの「神話」がいかに西側亡命者のあいだで形成されたのかを解き明かした。В.В.Фещенко氏は,これまで言語学者から等閑視されてきたベールイの言語学的遺産を再評価すべきという観点から,言語の実験者,アヴァンギャルドの先駆者としてのベールイの業績を展望した。H.Ram氏はグルジア・モダニズムにベールイの与えた影響を論じ,ロシアを通じて西欧を志向したグルジアの「モダン」における〈中心〉と〈周辺〉の相関を述べた。日本におけるベールイ研究は あたかも『ペテルブルク』までで限定されて しまっているかのような感を受けるが,今回 会議に参加してみて,発表のテーマが非常に 多岐にわたり,あらためてベールイという作 家の存在の大きさ,ユニークさに瞠目させら れた。プロテウスさながら,様々に変貌しつ つ多様な「仮面」を見せながらも常に一つで あるという,ベールイの創造力の根源を目の 当たりにするかのようだった。


Киселева,Спивак,Лавров,Matich諸氏

 今回の会議では研究発表がゆうに五十を超過し,また数多くの催しが計画されていたため時間の制約が厳しく,自由に討論することは残念ながらできなかった。それでも,ベールイ研究の大家も若手も分け隔てなく,非常に家庭的な雰囲気のなかで会議が行われたことは特筆すべきである。なかでもベールイ研究の「ベテラン」たち,А.В.Лавров,G.Nivat,J.D.Elsworth,M.Ljunggrenら各氏からベールイ研究を志した経緯,ソ連時代の 苦労,最初の妻アーシャ・トゥルゲーネワと の対談,二度目の妻クラーヴジヤ・ニコラーエヴナやガーゲン・トルンのこと,ロシ ア・シンボリズム研究の先駆けマクシーモフ のことなど,生の回想を直接聞けたことは, 筆者にとって何よりも得難い無上の経験だっ た。ベールイが終生夢見ていた精神の「共同 体」が,会議の場に兆していたとしても,決 して過言ではないだろう。


思い出を語るLjunggren氏,Elsworth氏

 なお,会議中に筆者が鳴海完造氏について言及したところ,実に多くの参加者から反響があった。鳴海氏は1927年10月29日,モスクワのニキーチナ夫人のサロン(いわゆる「ニキーチンスキエ・スボートニキ」)でベールイ本人の講義(『青銅の騎士』についてのもの)を聴いているのである。鳴海氏の日記か らベールイについての感想をその場で抄訳し,ニキーチナ夫人と一緒に写っている鳴海氏ほか3名の日本人の写真を紹介した(日記のコピーと写真は,中村喜和氏のご好意による)。鳴海氏がベールイの講演を生で聴いた日に,筆者がベールイ生誕125年記念会議に同席していたことは,奇縁と言うべきなのだろうか。 

ベールイ記念博物館では現在ホームページを作成中である。そのためデータ・ベースとなる情報を募集している。日本において発表されたベールイについて書かれた論文・翻訳 のリスト,研究者の情報,翻訳の原本なども 送ってほしいということである。協力してい ただける方は,どうか筆者までメールでご一 報(andriusha@kumagaku.ac.jp)いただける と幸いである。  

最後に,これほどまでに大規模な会議を取りまとめ,学問的なレベルの高さはもとより,終始家庭的な雰囲気のうちに会議を取り仕切ったМ.Л.Спивак氏を心より称えたい。また,会議出席に向けて筆者を常に激励してくれた師В.Г.Белоус氏に深謝する。今回の会議出席は筆者にとって,文字どおりの「死病からの甦り」となった。

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